ドストエフスキー『未成年』(米川正夫 訳)

こういうわけで、もし人間を見分けたい、人間の魂を知りたいと思ったら、その当人の沈黙している様子や、しゃべったり、泣いたりしている具合や、あるいはさらに進んで、高潔なる思想に胸を躍らせている状態に注意するよりも、むしろ笑っているところを見たほうがよい。笑い方がよかったら――それはつまり、よい人間なのである。ただしその上にもあらゆる陰影を看取しなければならない。たとえば、人間の笑いはどんなに楽しそうに、純朴らしく聞こえても、愚かしい感じを与えることは断じてゆるされない。もしほんの毛筋ほどでも、愚かしさが笑いの中に感じられたら、たといその人間が常住坐臥、たえず思想をまき散らしているにもせよ、どこか知恵の足りないところがあるわけだ。よし笑いそのものが賢そうでも、その当人が笑った後でなぜかふと、――ほんの少しばかりでも滑稽に思われたら、その人にはほんとうの人格的品位が欠けている、少なくとも十分ではない、とそう考えてさしつかえない。またこういう場合もある――よしんばその笑いが普遍的であっても、なぜか俗っぽい感じを与えたら、その人間の本性も俗であるとみてかまわない。以前その人に認められていた高尚なものも、潔白なものも、わざとこしらえた付焼刃でなければ、無意識によそから借りて来たものである。こういった人間は、必ず後日わるい意味の変化を生じて、『とくな』仕事をはじめるようになる。そして高潔な思想などは、若い時分の迷いとして、惜しげもなくほうり出してしまうに相違ない。