夏目漱石「病院の春」

 此看護婦は修善寺以来余が病院を出る迄半年の間始終余の傍に附き切りに附いてゐた女である。余は故(ことさ)らに彼の本名を呼んで町井石子嬢々々々と云つてゐた。時々は間違へて苗字と名前を顚倒して石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を傾(かし)げながらさう改めた方が好(い)い様で御座いますねと云つた。仕舞には遠慮がなくなつて、とう/\鼬(いたち)と云ふ渾名(あだな)を付けて遣つた。或時何かの序(ついで)に、時に御前の顔は何かに似てゐるよと云つたら、何うせ碌なものに似てゐるのじゃ御座いますまいと答へたので、凡(およ)そ人間として何かに似てゐる以上は、まづ動物に極(きま)つてゐる。外に似やうたつて容易に似られる訳のものぢやないと言つて聞かせると、夫(そり)や植物に似ちや大変ですと絶叫して以来、とう/\鼬と極つて仕舞つたのである。