ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(宇野邦一、小沢秋広、田中敏彦、豊崎光一、宮林寛、守中高明 訳)

 実際次のような問いが残っている。顔貌性抽象機械が作動するのはいつか、それが始動するのはいつなのか。単純な例をいくつか取り上げよう。授乳の最中に顔を通じて作用する母親の権力、愛撫のときさえ、愛されるものの顔を通じて作用する情念的権力、大衆運動においてさえ、リーダーの顔、旗、イコン、写真を通じて作用する政治的権力、スターの顔やクローズ・アップを通じて作用する映画の権力、テレビの権力……。顔はここで個的なものとして作用するのではない。個体化は、まさに顔がなくてはならぬという要請の結果として現われるのだ。ここで肝心なのは顔の個体性ではなく、顔が可能にする数的操作の有効性であり、それがどんな場合に可能かということである。これはイデオロギーにかかわる問題ではなく、権力の経済と組織化の問題なのだ。はっきり言っておくが、顔や顔の力能が権力を生み、権力を説明するのではない。反対に一定の権力のアレンジメントが顔の生産を必要とするのであり、それを必要としない場合もあるのだ。

   ※太字は出典では傍点