ミシェル・フーコー『狂気の歴史』(田村俶 訳)

 監禁は、十七世紀に固有な制度上の産物である。一挙にそれは、中世に実施しえたような投獄制度といかなる共通の次元をももたぬ広大さを獲得した。それは経済上の措置、社会的な安全策という点で新機軸の価値をもっている。ところが非理性の歴史のなかでは、それは決定的な事件をしめすのである。すなわち、貧困、労働にたいする無能力、集団への不適応などの社会的視野のなかで、狂気が知覚される契機、そしてまた、狂気が都市の諸問題と関連をもちはじめる契機をしめすのであるから。貧困にくわえられる新たな意味、労働の義務に与えられる重要性とそれにつながるすべての倫理上の価値、それらが、狂気にかんする人人の経験を遠くから限定し、その経験の意味方向を曲げる。
 ある一つの感受性が生れたのである。ある一線を画し、敷居を高くし、そして、選択し、追放する一つの感受性が。古典主義時代の具体的な社会空間は、都市の現実生活が中断される中立地帯、いわば白紙のページを確保している。すなわちそこでは、もはや秩序は勝手気ままに無秩序に立ち向わない、もはや理性は、理性を避けるかもしれないものや拒否しようと努めるものすべてをみずから乗りこえて進む努力をしない。理性は、鎖をとかれて荒れ狂う非理性にうち勝つようにあらかじめ配慮されていて、純粋な状態で勝ちほこったように支配権をふるうのだ。他方、こうして狂気は、文芸復興期の天空に依然として多数の狂気を住まわせていたあの想像力の自由奔放さから引き離された。なるほど、狂気が、真昼間に暴れまわっていたのは、まだそんなに昔のことではなく、『リヤ王』がそうであり、『ドン・キホーテ』がそうだった。だが、半世紀もたたないうちに、狂気は閉じ込められてしまい、監禁のとりでのなかで、〈理性〉に、道徳律に、それらの支配する単調な夜に結びつけられてしまったのである。