ミシェル・フーコー『言葉と物』(渡辺一民、佐々木明 訳)

 かくして分析は、古典主義時代をつうじて、表象の理論と言語(ランガージュ)、自然の秩序、富と価値の理論とのあいだに実在してきた、整合性というものを示すことができた。十九世紀以後完全に変ったのはこの布置である。つまり、可能なあらゆる秩序の一般的基礎としての表象の理論が消滅する。物の自然発生的な表(タブロー)と最初の碁盤目としての言語(ランガージュ)、表象と諸存在とのあいだの欠くべからざる中継者としての言語(ランガージュ)が、つづいて姿を消す。それから、深層における歴史性というものが、あらゆる物の核心をつらぬき、それらを孤立させ、物固有の整合性においてそれらを規定し、時間の連続性によって導入される秩序の諸形態をそれらに課する。交換と貨幣の分析は生産の研究に場所を譲り、有機体の研究が分類学的特徴(カラクテール)の探究にたいして優位に立つ。とりわけ言語(ランガージュ)は、その特権的地位を失い、いまでは過去の厚みをもった首尾一貫する歴史の一形象にすぎなくなる。しかし、物がみずからの生成にたいしてのみ理解可能性の原理をもとめ、表象の空間を捨て、それ自身のまわりにまきついていくにしたがって、こんどは人間が西欧の知の場にはじめて登場する。奇妙なことに、人間は――素朴な眼に、それにかかわる認識はソクラテス以来もっとも古い探究の課題だったと映っているのであるが――おそらくは、物の秩序のなかのあるひとつの裂け目、ともかくも、物の秩序が知のなかで最近とった新しい配置によって描きだされた、ひとつの布置以外の何ものでもない。新しい人間主義(ユマニスム)のすべての幻想も、人間に関する、なかば実証的でなかば哲学的な一般的反省と見なされる「人間学」のあらゆる安易さも、そこから生れてきている。それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、何とふかい慰めであり力づけであろうか。