モーリス・ブランショ『文学空間』(粟津則雄、出口裕弘 訳)

 書くとは、終りなきもの、止まざるものだ。作家は、「私は」と言うのを断念する、と言われる。カフカは、自分は「私は」を「彼は」に置きかえ得た時から文学に入ったと、驚きながら、ある恍惚たるよろこびをもって語っている。これは本当だが、この場合の変容は、もっとはるかに奥深いものなのだ。作家は、誰ひとり語らぬ言語に、誰にも向けられず、中心も持たず、何ものも明さぬ言語に属している。彼は、この言語のなかで自己を主張していると思っているかも知れないが、彼が主張するものは、まったく、自己を奪い去られている。彼が、作家として、書かれるものを正当に扱うかぎり、もはや決して、自己表現など出来ぬ。その上更に、汝に呼びかけることも、他人に語らせることも出来ぬ。作家が存在しているところでは、ただ、存在だけが語っている――という意味は、言語がもはや語ってはおらず存在しており、存在の純粋な受動性に委ねられているということだ。