ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』(徳永恂 訳)

かつてアニミズムが事物に心を吹き込んだとすれば、今は産業社会が心を事物化する。経済機構は、全体的計画化の成立よりも前に、すでに自動的に、人間の行動を決定する価値を商品に付与する。自由交換の終末とともに、商品がその経済的な諸性質を失って、物心的性格のみを帯びるようになると、この物心的性格は、社会生活のあらゆる局面に硬直をもたらす。規格化された行動様式だけが、大量生産とその文化の数限りない代弁機関によって、唯一の自然で作法にかなった理性的なものとして、個々人に対して押しつけられる。個々人はもはや事物として、統計学的要素として、成功か失敗かを問われるものとして、自己を規定するだけである。彼の尺度は自己保存であり、自分の職務の客観性やその職務の鑑とされる範例へ、うまく同化できるか否かである。それ以外のすべては、理念であれ犯罪行為であれ、学級から労働組合に至るまで、監視する集団の圧力に遭遇することになる。しかしながら脅迫的な集団でさえ、欺瞞的な表面に属するものにすぎず、その下には、暴力的なものとしてこの集団を操作する、さまざまの権力が身をひそめている。個々人をいつまでも手放そうとしないこの集団の残虐性は、価値が、使用される物の真の性質を表していないと同じく、人間の真の性質を表すものではない。偏見に曇らされない知見の明るみのうちで事物や人間が帯びた悪魔的に歪んだ形姿は、支配という原理をさし示す。この原理は、すでにさまざまの精霊や神々へのマナの特殊化をひき起してきたものであり、呪術師や呪医師が妖術を行う際に彼らの目を捉えた原理であった。原始時代に、訳のわからない死を正当化するために使われた宿命は、今や何もかもわかりきった現実の生を正当化するために使われる。昼寝から突如驚いて目覚めたパーンのように、人間は、普遍者(Allheit)としての自然の姿に気づいて愕然とする。かつてのパーンの驚きに対応しているのは、今日いついかなる瞬間に突発するかもしれないパニックなのだ。人間は、彼ら自身でありつつも彼らの意のままにはならない普遍者の手によって、出口なき世界に火が放たれることを期待している。