中沢新一『森のバロック』

 しかし、ディレッタント民俗学をとおして、都市の住民たちがおこなおうとしていた作業には、別の意義がある。彼らは、田舎のフォークロアに関心をいだくことによって、自分たち市民の住む都市なるものの、隠された始源を探究しようとしていたのである。市民社会は、みずからの起源を隠蔽する傾向をもつ。これは、市民世界自体が、伝統的に自然な権威とされてきたものを否定する意識から、発生したものであることに、原因がある。市民の文化の根拠は、自然の中にも、神の中にも、みいだすことはできない。彼らは、みずからの根拠を、自分の内部に発見しなければならなくなる。そのために、近代の市民社会は、全体として一種の「トートロジー」または「自己言及システム」として、構成されることになるのだ。このような社会は、みずからの根拠を語ることを、あらかじめ禁じられている。自然も神も、もはや社会にたいする「外」ではありえないから、パロディや戯画で描かれるようになる。市民世界は、こうして始源を隠蔽した社会として、成立するのだ。