渡部直己『谷崎潤一郎――擬態の誘惑』
すなわち、上記してきた「擬」と「欺」だけでなく、より広く谷崎的主題として認知されている「戯」や「犠」 (いけにえ) や「跽」 (=「跪」・ひざまずく) までもが、同じ字音を共有しながら、この風土にすでに親しく接しあっていること。とかく人為的な人物たちのすがたや、とりわけヒロインの特性をそこに託してよければ、「技」も「妓」も同断だろう。『蓼喰ふ蟲』の曖昧さを形づくっていたのも、その同音性によってこの親和力に強くひきよせられながらも、実直さゆえここから排斥される「義」ではなかったか。もとより他愛のない偶然かもしれない。「谷崎文学」のエロティスムにまとわりつく擬態の生育とはつまり、その同一字音に絡めとられつつ連動する「ギ」態の繁茂にほかならぬ、とそこまで確信をもって明言するわけにもゆくまい。が、この「偶然」に一驚を禁じえないでいる者にとって、さらに不思議なことには、『卍』『蓼喰ふ蟲』から三十年ほどのちの『鍵』が、同じ「ギ」態の親和力のただなかに新たに強く誘致するのは、嫉妬の糧としての「疑」であり、主人公がはじめから性的不能におかれる『瘋癲老人日記』にきわだてられてくるのは、性戯の代替たる「偽」 (にせ) のテーマなのだ。
※斜体は出典では傍点