エドムント・フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷恒夫・木田元 訳)

われわれはどこから手をつけてみても、次のように言わねばならない。わたしにとっても、またおよそ考えられうるいかなる主観にとっても、現実に存在するものとして妥当しているすべての存在者は、主観と相関的であり、本質必然性において主観の体系的多様性の指標である。すべての存在者は、現実的ないし可能的に経験される与えられ方の理念的な普遍性を指標している。この経験される与えられ方のそれぞれは、この一つの存在者の現われであり、しかもそれぞれの現実的で具体的な経験は、この全体的多様性のなかから、経験しつつある志向を連続的に充実していく過程、すなわち与えられ方の調和的な過程を現実化してゆくわけである。ところで、この全体的多様性は、現実的な経過に対して、なお可能的に実現されるべき過程の地平として、すべての経験に、したがってまたその経験においてはたらいている志向に、共に帰属している。そのつどの主観にとってはこの志向がわれ意識す(cogito)(コーギト)であり、(最も広義に解された)多くの与えられ方こそがその意識対象(cogitatum)(コギタートゥム)――それがなんであり、またいかにあるかという点からしての――なのである。そして多くのこの与えられ方は、それはそれでまた、それらを統一するものとしての同じ一つの存在者を「呈示」しているのである。

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