マルティン・ブーバー『我と汝』(植田重雄 訳)

 恵みによって〈なんじ〉がわたしと出合う、――〈なんじ〉は求めることによって見出されない。しかし、わたしが〈なんじ〉に向かって根源語を語るのは、わたしの存在をかけた行為、本質行為である。
 〈なんじ〉がわたしと出合いをとげる。しかしわたしが〈なんじ〉と直接の関係にはいってゆく。このように、関係とは選ばれることであり、選ぶことである。能動と受動とは一つになる。なぜならば、全存在をもって行う能動的な行為は、すべての部分的行為の停止であり――ただ部分的行為の限界に根ざしたものにすぎぬがゆえに、――すべての能動的行為という感覚が消えて、受動と似たものとなってしまう。
 根源語〈われ−なんじ〉は、ただ全存在をもって語り得るのみである。全存在への集中と融合は、わたしの力によるのではないが、またわたしなしには生じ得ない。〈われ〉は〈なんじ〉と関係にはいることによって〈われ〉となる。〈われ〉となることによってわたしは、〈なんじ〉と語りかけるようになる。
 すべての真の生とは出合いである。