2011-09-01から1ヶ月間の記事一覧

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

自由を自覚した人間は、自分の足で立ち、以前の自分をどこかに置きざりにしてそれと対立するのではなく、以前の自分と和解しているのだ。

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

リズムの特質は騒がしい強勢の規則性によって表現される、という既成概念。間違いである。ロック音楽の退屈なリズムの原始性。心臓の鼓動が増幅される結果、人は一瞬たりとも自分の死への行進を忘れることはないのである。

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

自分の心臓の鼓動を聞くのはいやなものだ。それは、自分の人生の時間が秒読みされているのを絶えず思い出させる。そんなわけで私は、楽譜を区分する縦線にいつも何か不吉なものを感じてきた。しかし、リズムのもっとも偉大な巨匠たちはこの単調で予測できる…

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

小説の(私たちが小説と呼ぶあらゆるものの)歴史(統合され一貫した発展)は存在しない。存在するのはただ、中国の、ギリシア・ローマの、日本の、中世の、といったような小説のさまざまの歴史だけである。私がヨーロッパの、と呼ぶ小説は、近代の夜明けに…

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

人間の条件のひとつの性質としての未熟。私たちは一度しか生まれない。前の生活から得た経験をたずさえてもうひとつの生活をはじめることは決してできないだろう。私たちは若さのなんたるかを知ることなく少年時代を去り、結婚の意味を知らずに結婚し、老境…

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

クンデラ 私がこんなことをお話しするのは、小説を創作するとは、あい異なるさまざまの感情の空間を並置することであり、そして私の考えでは、それこそ小説家のもっともたくみな技巧であることをあなたに理解してもらうためなのです。

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

あらゆる偉大な作品には(まさに偉大なるがゆえに)、例外なく未完成の部分が含まれています。ブロッホは彼がみごとに達成したすべてのものによってのみならず、達成にまではいたらなかったものの、その目ざしたすべてのものによっても私たちの創造の意欲を…

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

クンデラ 科学と技術に奇跡をいくつももたらしたあげく、この〈主にして所有者〉は、自分がなにひとつ所有しておらず、自然の主でもなく(自然は地球から徐々に消えている)、「歴史」の主でもなく(歴史は彼の手からすり抜けてしまった)、自分自身の主でさ…

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

クンデラ さて、くどいようですがもういちど、小説のただひとつの存在理由は小説のみが語りうることを語ることである、と申しましょう。

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

小説の精神は連続性の精神です。つまり、それぞれの作品は、先行する作品への回答であり、それぞれの作品には、小説の過去の経験がすでに含まれているということです。しかし、私たちの時代精神は今日性(アクチュアリテ)の上に固定されています。

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

小説の精神とは複合性(コンプレクシテ)の精神です。どの小説も、「事態は君の想像以上に複雑だ」と読者に語ります。これが永遠に変らない小説の真実ですが、しかしこの真実は、問いに先行し、問いを排除する単純で性急な回答の騒音のなかでますます聞きと…

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

もし小説がほんとうに消滅しなければならないとすれば、それは小説の力が尽きてしまったからではなく、小説がもはや小説のものではない世界に存在しているからだ、ということです。

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

小説の死とは根も葉もない観念ではないのです。それはすでに起こったのです。そしていまや私たちは、どうして小説が死ぬのかを知っています。小説は消滅するのではなく、その歴史の外に転落するのです。そんなわけで、小説の死は、だれにも気づかれずに静か…

ミラン・クンデラ『小説の精神』(金井裕/浅野敏夫 訳)

つまり、小説はヨーロッパの産物であるということです。小説のさまざまの発見は、異なったさまざまな国語のなかでなされてきましたが、それでもそれらは全ヨーロッパに帰属するものです。発見の継承(書かれたものの加算ではなく)、これがヨーロッパの小説…

蓮實重彦『小説から遠く離れて』

いかなる小説にも似ていない小説が出現したら、それはあらゆる人が文学に顔をそむける決定的な瞬間であるに違いない。 物語には、この種の類似は禁じられている。同じ物語か、別の物語しか存在しないのである。

蓮實重彦『小説から遠く離れて』

小説に似ることは小説の条件にほかならず、類似こそが小説の定義だというべきかもしれない。小説家の独創性などというものは、ありもしない虚構なのである。事実、独創的であろうとする人間の書いた小説ほど退屈なものはないだろう。

蓮實重彦『小説から遠く離れて』

文学に於ける最大の不幸は、一篇の作品が仲間のどれ一つとも似ることなく孤独に宙をさ迷うしかないことにほかならず、とりわけ小説の場合は、必然的に何ものかの模倣として書かれているのだから、類似こそが必須の美徳なのである。

蓮實重彦『小説から遠く離れて』

事実、文学など、古くさくてもいっこうに構わないのである。

蓮實重彦『小説から遠く離れて』

特殊でありたいといういささかも特殊ではない一般的な意志、あるいは違ったものでなければならぬという同じ一つの強迫観念が、文学をどれほど凡庸化してきたかは誰もが知っている歴史的な現実である。文学の近代的な自意識なるものによって捏造された個性神…

蓮實重彦『表層批評宣言』

風景は教育する。風景が風景としてあることの意義は、ほぼその点に尽きるといってよい。

蓮實重彦『表層批評宣言』

「文学」は愛を肯定する。恋愛小説だの抒情詩だののジャンルにかかわりなく、「文学」は愛を希薄に肯定する。そしてその希薄なる肯定の普遍化を執拗に肯定する。だらかあらゆる「文学」はレアリスムと呼ばれるにふさわしい。そこに幻想が語られようが、ある…

蓮實重彦『表層批評宣言』

「書物」とは、有限な「紙」と有限な「言葉」との表層的な密着からなる「印刷物」の有限性によって、読む体験そのものをも残酷に切断する血なまぐささをはらんだ対象なのだ。

蓮實重彦『表層批評宣言』

だからあらゆる「出会い」は、「制度」的に位置づけられ準備され組織された遭遇なのであって、その位置づけられ組織され準備されたさまを隠蔽するために、人は「出会い」を疑似冒険者的な色調に塗りこめ「文学」と「青春」との妥協に役立てずにはいられない…

蓮實重彦『文学批判序説――小説論=批評論』

物語の他動詞的な圧政なるものは、物語の話者が人間であるという物語を、話者たる人間が語る物語だと錯覚させる点にまで行きわたっており、その錯覚を現実だと錯覚させる物語こそが、もっともおそるべき他動詞的な圧政だという事実を、多くの人が見過してい…

蓮實重彦『文学批判序説――小説論=批評論』

「物語」は勝利する。権力構造や文化形態、あるいは時代や人種、さらには風土や習慣の違いを超えて、「物語」はきまって勝利するし、また勝利することがその唯一の機能にほかならない。

蓮實重彦『文学批判序説――小説論=批評論』

要するに金井美恵子は馬鹿の顔が見たくないのだ。 ※太字は出典では傍点

蓮實重彦『文学批判序説――小説論=批評論』

「文学」に似てしまう言葉ほど醜悪なものがまたとあろうか。それは、「文学」には似まいと決意した言葉と同程度に醜い身振りとなってあたりに頽廃の種をまきちらす。「文学」とは、よく書くことによって徐々に接近しうる理想的な環境ではない。それは刻々遠…

蓮實重彦『文学批判序説――小説論=批評論』

なに、自意識が引き裂かれると。それならあっさり引き裂かれて、自分を複数化してみせればいいではないか。存在を積極的に断片化し、それを世界にむけて拡散させてゆくことに何の苦痛が伴うというのか。自分自身をばらばらに解きほぐしてしまえばいいではな…

宮本常一『忘れられた日本人』

「やっと世間のことがわかるようになったときには、もう七十になっていましてな。わしも一生何をしたことやらわかりまへん」

宮本常一『忘れられた日本人』

女とねるのは風流の一つであった。風流のわからぬものは女とねるとしくじる。