2011-09-16から1日間の記事一覧

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

したがって、イメージされた神の死は、同時に、いまだ自己として確立されない抽象的存在としての神の死である。そこには、「神そのものが死んだ」という不幸な意識の苦しみの情がこめられている。このつらい表現は、内奥にひそむ単純な知の表現であって、そ…

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

不幸な自己意識は、抽象的人格が現実に承認されること、しかも、純粋な思考のうちで承認されることが、どういうことなのかを知っている。そのような承認が実は完全な喪失であることを知っている。不幸な自己意識そのものが自己の喪失の意識であり、自分の知…

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

自己には自分を外化する力が――自分を物にし、その存在に耐えていく力が――欠けているのだ。自己は自分の内面の栄光が行為と生活によって汚されまいかと不安をいだいて生きている。心の純粋さを保持するために、自己は現実との接触を避け、抽象の極に追いこま…

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

多くの性質がたがいに触れあうことも打ち消しあうこともなく、それぞればらばらに存在するための共通の媒体――「も」の媒体――だというのが、物の本当のありようなのである。

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

ただ、こういう性質もあり、こういう性質もあり、と、「も」が続くだけで、この「も」こそが純粋で一般的な媒体のありようを――たくさんの性質をまとめあげる物としてのありようを――示している。 ※太字は出典では傍点

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

「いま」はまさに「このいま」として示される。が、示された「いま」はもう「いま」ではない。いまある「いま」は示された「いま」とは別の「いま」であり、こうして、「いま」とは、いまあるがゆえにもういまではないようなものだとわかる。わたしたちに示…

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

ともあれ、まちがいを犯すのではないかという心配が、学問にたいする不信の念をかきたて、学問が余計な配慮なしに仕事にとりかかり、認識を実行することを妨げているとすれば、視点を変えて、この不信の念にこそ不信の目をむけ、まちがいをおそれることがす…

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神は否定的なものに目をそむけ、肯定のかたまりとなることで力を発揮するのではない。なにかをさしだされたとき、それは無意味でまちがっている、といって、さっさとその前を去り、安んじて別のも…

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

せっかちな人は途中経過なしにいきなり目標を達成しようと考えるが、それは不可能な望みというものだ。途中のどれもこれもが大切なのだから、長い道のりを辛抱して歩かなければならない。また、一つ一つを丁寧に見てもいかねばならない。一つ一つがまとまっ…

ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

自由を自覚した人間は、自分の足で立ち、以前の自分をどこかに置きざりにしてそれと対立するのではなく、以前の自分と和解しているのだ。