2013-01-01から1年間の記事一覧

夏目漱石『行人』「兄」

其時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装つて、)「二郎一寸話がある。彼方(あっち)の室(へや)へ来て呉れ」と穏かに云つた。自分は大人しく「はい」と答へて立つた。

小林秀雄「アシルと亀の子」I

最近二つの論文集を読んだ。〔……〕芸術を愛してゐる小説作家と芸術などを愛する事は愚劣と信ずる文芸批評技師とによつて書かれたこの二つの論文はもちろん大へん趣の変つたものだが、両方とも同じ様に仰々しく(颯爽としてゐるといふ人もあるかもしれない)…

太宰治『狂言の神』

今夜、死ぬのだ。それまでの数時間を、私は幸福に使ひたかつた。ごつとん、ごつとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱でもない、荒凉でもない、孤独の極でもない、智慧の果でもない、狂乱でもない、阿呆感でもない、号泣でもない、悶悶でもない、厳粛で…

武田泰淳『ひかりごけ』

光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言った方がよいでしょう。光りかがやくのではなく、…

太宰治『道化の華』

葉蔵は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから、三十丈もの断崖になつてゐて、江の島が真下に小さく見えた。ふかい朝霧の奥底に、海水がゆらゆらうごいてゐた。 そして、否、それだけのことである。

丸谷才一『川のない街で』

雅子は歩きつづけながら、これからあたしはどうなるのだろうと考えてみるが、彼女の想像力はどんな未来も描いてくれない。 4 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

小林秀雄『おふえりや遺文』

……夜が明けたら、いや、いや、何もそんなに急ぐ事はないのです、妾はかうして書いてゐる方へ行けばいゝ、書いてゐる方へはこんで行かれゝばそれでいゝ、でも何を書いたらいゝのだらう。……言葉はみんな、妾をよけて、紙の上にとまつて行きます。……一体、何ん…

山本周五郎『青べか物語』

「ほれ見せえま」と老人は云った、「まっさらとは云えねえが、造ってからまだ七年にしかなんねえ、大事にしろばまだ十五年や二十年はたっぷり使えるだ」 私は自分の考えを述べようとした。 「値段もまけるだよ」と、老人は喚きたてた、「蒸気河岸の先生のこ…

山本周五郎『青べか物語』

私はタバコを渡し、マッチを渡した。老人はタバコを一本抜いて口に咥(くわ)え、風をよけながら巧みに火をつけると、タバコとマッチの箱をふところへしまった。 「いい舟があんだが」と老人は二百メートルも向うにあるひねこびた松の木にでも話しかけるような…

中原中也『在りし日の歌』「北の海」

海にゐるのは、 あれは人魚ではないのです。 海にゐるのは、 あれは、浪ばかり。

太宰治『人間失格』

しかしまた、堀木が自分をそのやうに見てゐるのも、もつともな話で、自分は昔から、人間の資格の無いみたいな子供だつたのだ、やつぱり堀木にさへ軽蔑せられて至当なのかも知れない、と考へ直し、 「罪。罪のアントニムは、何だらう。これは、むづかしいぞ。…

太宰治『人間失格』

またもう一つ、これに似た遊戯を当時、自分は発明してゐました。それは、対義語(アントニム)の当てつこでした。黒のアント(対義語(アントニム)の略)は、白。けれども、白のアントは赤。赤のアントは、黒。 「花のアントは?」 と自分が問ふと、堀木は口を…

花田清輝『さちゅりこん』

わたしは、戒能通孝が「インテリゲンチア」〔……〕のなかで試みたように、日本の今日の知識人をドン・キホーテ型、ハムレット型、といった人類永遠のタイプにわけることにかならずしも不賛成ではないが――しかし、それだけではいくらか非歴史的で、アイマイな…

尾崎一雄『毛虫について』

蛇、みみず、などを嫌う人は、毛虫や夜盗虫をさほどにも思わぬし、その逆も云えるとのことだが、本当かも知れない。私は、蛇やみみずは、案外平気で扱うことが出来る。両方怖いという場合もあるようだが、そういうのは女に多いようだ。家内がそうだし、娘な…

吉行淳之介『軽薄のすすめ』

当時の私も、そういう言い方は分っていたが、どうしてもその言葉を口に出せなかった。そのため、私は散歩して間もなく別れてしまった。 しかし、そういうためらいが青春というものかもしれぬ、とおもわぬでもない。

安岡章太郎『サルが木から下りるとき』

モンバサは古い港町であり、そこは十五世紀頃から黒人奴隷の積み出し港(!)として繁栄してきた。私の気が滅入ったのは、この町のそういう歴史的な背景とも無関係ではないかもしれない。

野間宏『真空地帯』

「あっ……いかん、准尉さんや……」叫んだのは班長だった。廊下をこちらへ近づく足音はたしかにゆったりとして、准尉以外の足音ではなかった。

丸谷才一『日本語のために』

わたしは反対派のほうで、つまり「ナウなセンスのフィーリング」といつた言ひまはしは好きぢやない。もつとはつきり言へば嫌ひである。

ブレット・ハリデイ『大いそぎの殺人』

「あげくのはてに誰かが、ちび大将にズドンと一発お見まい申しあげたってわけかい?」 「笑いごとじゃないぞ」とウィングが言った。 「笑う気はないさ」、シェーンはライターの火をつけた、「もっとも、だからと言って泣きたいとも思わんがね。」

梅崎春生『崖』

三十歳の峠を越そうという人間が、二十になったやならずの兵長の喚くまま、汗水垂らして掃布握って床を這い廻り、眼の色変えて吊床を上げ下げする図は、どう考えても気の利いた風景でない事は私といえども百も承知しているのだが、しかし当時の私の気持とし…

井上ひさし『十一ぴきのネコ』

にゃん次 それで、にゃん太郎さん、大きな魚をやっつけたんでしょうかね。 にゃん蔵 十中八九は―― にゃん四郎 十中七八は―― にゃん吾 十中六七は―― にゃん六 十中六五は―― にゃん七 十中五四は―― にゃん八 十中四三は―― にゃん九 十中三二は―― にゃん十 十中…

夏目漱石『京に着ける夕』

夢のうちに此の響(ひびき)を聞いて、はつと眼を醒ましたら、時計はとくに鳴り已(や)んだが、頭のなかはまだ鳴つてゐる。しかも其の鳴りかたが、次第に細く、次第に遠く、次第に濃(こまや)かに、耳から、耳の奥へ、耳の奥から、脳のなかへ、脳のなかゝら、心…

井上ひさし『江戸の夕立ち』

最初の一ヵ月はわけもわからずに、ただただ夢中で暮した。 おれの仕事は、地大工といって、山に穴を穿って掘った坑道にもぐりこみ、鉄を含んだ岩を鶴嘴(つるはし)で砕くのが仕事だった。 扇子と盃しか持ったことのないやわな手に鶴嘴は重かった。一日で、掌…

落語「お直し」志ん生

おおぜいの花魁のきげんをとるんですから、大変なもんでございまして、あんまりやさしくするてえと、当人が図にのぼせちゃう。といって、小言をいやあ、ふくれちゃうし、なぐりゃ泣くし、殺しゃ化けて出る。どうも困るそうですなあ、女というものは……。

野坂昭如『火垂るの墓』

三尺四方の太い柱をまるで母とたのむように、その一柱ずつに浮浪児がすわりこんでいて、彼等が駅へ集まるのは、入ることを許される只一つの場所だからか、常に人込みのあるなつかしさからか、水が飲めるからか気まぐれなおもらいを期待してのことか、九月に…

開高健『日本三文オペラ』

〔……〕この、新世界とジャンジャン横町というところは、まさに、年がら年じゅう夜も昼もなく、ただひたすら怒って騒いで食うことにかかりきっているようで、栄養と淫猥がいたるところで熱っぽい野合をしていた。娼婦、ポン引、猥本売り、めちゃな年頃の大学…

野上弥生子『秀吉と利休』

堀川の一条通りに近い空地の、はじめはほんの二、三軒の露店がいっぱしの市場になって、たえず景気のよい売り声をたてている魚屋、八百屋、鍋釜、桶、ざる、箒木(ほうき)の荒物屋から、らしゃの合羽、鍔広帽子、縫い取りの手巾、ねり玉の頸飾り、と触れこみ…

幸田露伴『平将門』

要するに平安朝文明は貴族文明形式文明風流文明で、剛堅確実の立派なものと云はうよりは、繊細優麗のもので、漸〃(ぜんぜん)と次の時代、即ち武士の時代に政権を推移せしむる準備として、月卿雲客(げつけいうんかく)が美女才媛等と、美しい衣(ころも)を纏ひ…

武田泰淳『流人島にて』

校長は二つの西瓜を重ね、また引き離し、他の荷物と包み合わせては、再び包みをほどく。麻縄のもつれをほぐし、長さを量り、敷石の角でそれをこすり切る。その縄で缶を縛っては、何回となく縛りなおす。忍耐づよいこと、ただ忍耐強いことだけが、Q島の住民を…

井上ひさし『モッキンポット師の後始末』

その日の午後、モッキンポット師とぼくら三人組は、北千住駅に立っていた。北千住の駅から七、八分歩くと大きな通りに出る。この通りをどこまでも北へ行くと日光へ着くのだが、演芸場は大通りから一町ばかり駅とは反対方向へ引っ込んだ所にあった。