2015-05-13から1日間の記事一覧

檀一雄「火宅の人」

「第三のコース、桂次郎君。あ、飛び込みました、飛びこみました」 これは私が庭先をよぎりながら、次郎の病室の前を通る度に、その窓からのぞきこんで、必ず大声でわめく、たった一つの、私の、次郎に対する挨拶なのである。 こんな時、次郎は大抵、マット…

安部公房「無関係な死」

客が来ていた。そろえた両足をドアのほうに向けて、うつぶせに横たわっていた。死んでいた。 もっとも、事態をすぐに飲込むというわけにはいかなかった。驚愕がおそってくるまでには、数秒の間があった。その数秒には、まるで電気をおびた白紙のような、息づ…

三浦哲郎「忍ぶ川」

志乃をつれて、深川へいつた。識りあつて、まだまもないころのことである。 深川は、志乃が生まれた土地である。深川に生まれ、十二のとしまでそこで育つた、いわば深川ッ子を深川へ、去年の春、東北の片隅から東京へ出てきたばかりの私が、つれてゆくという…