檀一雄「火宅の人」

「第三のコース、桂次郎君。あ、飛び込みました、飛びこみました」
 これは私が庭先をよぎりながら、次郎の病室の前を通る度に、その窓からのぞきこんで、必ず大声でわめく、たった一つの、私の、次郎に対する挨拶なのである。
 こんな時、次郎は大抵、マットレスの蒲団の上から、ずり落ちてしまっている。炎天の砂の上にひぼしになった蛙そっくりの手足を、異様な形でくねらせながら、畳にうつ伏せになっていたり、裁縫台の下に足をつっ込んでいたり、しかし、私の大声を聴くと、瞬間、蒼白な顔のまん中に、クッキリとした喜悦の色を波立たせて、「ククーン」と世にも不思議な笑い声をあげるのである。
 どんなに泣きわめいている時でも、むずかっている時でも、この「第三のコース、桂次郎君……」を私が怒鳴ってやりさえすれば、次郎の泣き声は、立ち所にピタリととまって、その顔に類い稀な鎮静の微笑が湧く。