クロード・シモン『アカシア』(平岡篤頼 訳)

……というわけでやっと、今度は彼女が絵葉書を送るようになったのだったが、それまで一度もバルセロナ、パリ、あるいはボルドーよりそれほど遠くへ行ったことがなく、離郷や興奮や異国趣味に関していえば、シャンティイパドックや闘牛の試合やオペラ座の夜の公演しか知らなかった彼女、おそらくはどんな男もまだ唇に接吻したことも、それどころかかすかに触ったこともなかったろう彼女が、いきなりお行儀のいい植物的な生活から拉致され、三十女ならではの貪欲さでめくるめく大渦潮(マエルストローム)とでもいったもののなかに投げだされ、というかむしろ発射され、突っこまれ、その中心にあるのは彼女の下腹部だったが、そこからこれまで彼女が味わったことのある快楽に対すること、一杯のアルコールがアーモンドシロップに対するようななにかが、荒波となって打ちよせ、彼女の肉体の境界内でさえとまらず、さらに外側へと波及したのであって、といっても彼女がまだ内側と外側とを区別できるとしたらの話だが、日傘をかざしながら、まだ息をはずませじっとりと汗ばんで、軽やかな麻布ごしに筋肉を感じることのできるあの腕にふたたびもたれて、ぐったりして(というかむしろ満たされ、堪能し、自失して)彼女はタラップをおり、寄港地をぶらつき(というかむしろ、まるでまともでない夢遊病的な状態にいるみたいに、ふわふわ漂い)マーケットの陳列台や現地人の市場をぬって歩き、終わりのないオルガスムのなかでみたいに、港や町やピラミッドやラクダやぼろをまとった野蛮な群衆を眺めては、老女に「……これがあたしたちとおなじ人類なのかとふしぎなくらいだわ、あたしたちは今朝六時に上陸して、いま九時、アドゥール号は十時に出帆するのよ、いまキャフェで冷たいもの飲んでいるところよ。ではまた」と書いてよこしたものだが、絵葉書は三人の黒人、というより三体の骸骨(というか添え木、というか案山子)、植物界と人間界の中間にある三つの雑種的なものをあらわしていて、つまり植物界に属するものと人間界に属するものとをあまりはっきり区別できず、どこかで前者と後者が分かれるかもわからず、というか干からびた木切れみたいな手足とそれを半分しかおおっていないだらんと垂れた繊維とをどこで区別していいのかわからず、そのぼろの下から風船みたいにふくらんだ腹部、飛びだした、円錐形をした臍、飛びだした肋骨が覗き(なかの一人は片手で生殖器をかくし――それともささえ?――)、三体の添え木みたいな体の上には、頭を丸刈りにして顔がのっていて、コーヒー豆みたいな目をなかば閉じ、大きな唇がソーセージみたいにむくみ、そのうちの一人のむこうずねには口がはじけた細長い傷が開いたままになっており、まるで木の幹につけた切り傷が閉じないでそのまま乾いたみたいで、というかさらには聖人とか殉教者の彫像の手足にあけて、ガラスの奥に骨の断片が見えるあの覗き窓を思わせ、