クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

「そら出たな。《歴史》か。きっとそいつが出てくるなとおれもさっきから考えていたんだ。そのことばを待ちかまえてたんだ。こいつがおそかれ早かれいつか顔を出さないってことはめったにないことだからな。ドミニコ会派の神父の説教にかならず《摂理》ということばが出てくるようなものでな。《処女懐胎》ということばみたいにな。純朴なこころをもった人間と我(が)のつよい頭の人間に専用のこの《歴史》という、伝統的な、けばけばしい、胸のわくわくするような幻影、密告者と哲学者とのこの良心のささえ、すりきれることのないこの寓話――というか悪ふざけ――のおかげで死刑執行人も慈善事業にしたがう修道女みたいに使命感にもえ、死刑を執行される側でも初期キリスト教会の信者たちの、浮きうきした、子供っぽい、ボーイスカウト的喜悦にひたるので、拷問を加える者も加えられる者も和解し手をつないでお涙ちょうだいの放蕩にひたり、まさにそれは休みなしにあのすさまじい汚物の山、あの塵埃処理場にごみを送る真空掃除機、いやむしろ知性の水洗装置とでも呼ぶべきやつで、その塵埃処理場の目ぼしい場所に、柏の葉でカムフラージュした軍帽や警官の手錠とならんで、わが思想家先生たちのガウンや、パイプや、スリッパも見えるというわけだが、それでもまだその塵埃の山の上に立って知性をそなえたゴリラ(ゴリルス・サピエンス)は、いつの日か彼自身の魂もやがてついていけなくなるような高みにまで到達し、冷蔵庫や自動車やラジオの大量生産のおかげで、いよいよ絶対腐敗しっこないという保証つきの幸福を味わうことができると思ってるんだな。だがまあ先をつづけろ。いずれにしろあの歩哨のやつの体内で醗酵している、うまいドイツ・ビールでいっぱいになった腸の排出する空気も、万象のコンサートのなかではモーツァルトメヌエットを聞かせるのだと想像することだって、できないわけではないからな……」