クロード・シモン『フランドルへの道』(平岡篤頼 訳)

したがってそれほど恋のことなど問題ではなく、でなければあるいは恋とは――情熱とは――まさしくそうしたもの、そんな声のないなにか、なにひとつ口に出されず――形さえなさない――あの心の躍動、あの嫌悪感、にくしみの衝動なのかも知れず、したがって身ぶりとか言葉とか意味もない場面とかのただの連続で、その中心に、前おきもなしに突発するのがあの突進、あの切迫した、敏速な、凶暴な格闘であり、場所などどこでもよく、あるいはほかならぬ厩舎の藁束(わらたば)の上かもしれないが、彼女はストッキングをはきガーターをつけたまま、たかだかとスカートをまくり、腿の上のほうの目のくらむような肌が一瞬ぱっと光り、ふたりともあえぎ、いきりたち、そしてきっと発見されはしないかと戦々兢々としていたろうから、彼の肩越しに彼女が、気違いじみた目つきで、首をよじって、戸口をうかがい、ふたりのまわりには馬の寝藁のアンモニアくさい匂いと、それぞれの仕切りのなかの馬たちの物音、そして彼はそのあとすぐにまたいつもと変わらぬ、底の知れない、憂わしげで、無口で、そして受動的で、そして陰鬱で、そして卑屈なあの骨と皮の仮面をとりもどし……
 そんなイメージ。それと重なって、いわばすかし模様みたいに聞こえてくるのが、あの味気ないが耳に執拗にまつわりつく饒舌で、それはいまやジョルジュにとって、母と切りはなせないが母とはっきり区別できる(彼女から流れだした液体、彼女の分泌したとでもいうべきなにか)などといったものではなく、いわば母そのものとなり、まるで彼女を形成する諸成分が(燃えたつようなオレンジ色の髪、ダイヤモンドをはめた指、年にも似ずというのではなくどうやら年と直接正比例して、年の数とともに色の数、あざやかさ、強烈さをましながら、頑として彼女が着つづけたあのあまりにも派手なドレスの数々も)結局そのおしゃべりのはなばなしくそうぞうしいささえにすぎなくなってしまったかのようで、