テネシー・ウィリアムズ「欲望と黒人マッサージ師」(志村正雄 訳)

 いま三十歳になるというのに、さまざまな防護壁をこころみたおかげで、顔も体もまだ子供のように未完成なものが見え、上司の見ているまえでは子供のような行動をした。体をどう動かしても、どんな語調でしゃべっても、どんな表情をしても、なぜか生まれて来て少しばかりの場所ふさぎをしてすみませんと世間に内気に詫びているようであった。彼には好奇心というものがなかった。学べと言われたことのみを学び、自分のことなど何も学ばなかった。自分の真の欲望が何であるかなど、見当もつかぬ。欲望とは個人の存在によって生じるものよりも大きい空間を占めるように作られたものの謂であるが、このことはアントニー・バーンズの場合、特に真実であった。彼の欲望というか、むしろ、彼の基本的欲望というべきものは、この男と比較してあまりにも大きすぎるので、欲望が彼を呑みこんでしまった。十着に裁断すべき上着を一着にしているようなもの、いや、バーンズの体がそれに合うだけ大きければよかったのだが。
 世の罪とは実はその局部性、その未完成の謂にすぎず、それを償うために苦しまねばならないのである。材料の石が足りなくなって一方の壁を省略した家、持ち主の資金切れで家具など入れられなくなった部屋――こんな種類の未完成は通例、何とか当座の間に合わせで隠したり、表面をととのえたりする。人間性にはそんな当座の間に合わせがいっぱいで、それは自分の未完成を隠すために自分で考案するのである。自分の一部が壁なしだったり、部屋に家具が入れてないように感じて、できるかぎりの埋め合わせをしようとする。夢をみたり、芸術というもっと高いものを志したりして想像力を用いるのは自分の未完成を隠すために案出する仮面というものだ。あるいは二人の男ないし数多くの国家のあいだにおける争いのごとき暴力も、人間性の中に完成せざるものの盲目にして無分別な補償行為である。ところが、さらに補償の型がある。それは償いを原則とするとき、自我を他者による暴力的処置にまかせ、かくすることによって自我から罪悪感を除くとき、生じる。この最後のやり方こそアントニー・バーンズが無意識にえらんだものである。