清水正『ビートたけしの終焉――神になりそこねたヒーロー』

 ビートたけしは意味は〈ない〉ことを強調しているが、その根拠を示すことはできないから、意味が〈ある〉ことを強調しても、べつにおかしくはない。ビートたけしは「意味がないのに意味があるかのようにして生きていく方法がはびこっているんだよ」と言っているが、これも「意味があるのに意味がないかのようにして生きていく方法」云々と置き換えることができる。
 〈意味のない〉ことをあたかも〈意味がある〉かのように何かする(生きること、死ぬこと、殺すこと)ことを〈ゲーム〉というのであれば、〈意味のない〉ことを〈意味のない〉こととして何かすることもまた〈ゲーム〉と言えるのであって、それとこれとは単に〈ゲーム〉の質の違いでしかない。ビートたけしの言葉で言えば、〈「いかに意味がないかを自分に確認させるために意味のないことを」やること〉、〈「単にひたすら意味のないことの確認を目指す」こと〉もまた〈ゲーム〉であるということである。
 ビートたけしが「ひたすら意味のないことの確認を目指」して映画『ソナチネ』を作ったとしても、彼がみんな(スタッフ一同)と「何の意味もない」〈ゲーム〉に熱中していたことだけは確かなのである。
 そして、ビートたけしが自作『ソナチネ』を〈意味のない映画〉と規定し、〈意味を求めない〉観客を求めたところで、それはビートたけしの〈希望〉でしかない。『ソナチネ』は象徴的意味で充満しているから、意味を求めるな、というのは暴力的な発言である。「いかに意味がないかを自分に確認させるために意味のないことをやってやろう」として作ったのが『ソナチネ』だとしても、皮肉なことに『ソナチネ』は結果として『いかに意味があるかを自分に確認させるために意味のあることをやってやろう』という記念碑的な作品となっている。第一「意味の息の根を止めてやろう」と思ったこと自体のうちに、ビートたけしは〈意味〉の存在を認めてしまっているのだし、『ソナチネ』で息の根を止められたのは、メルヘンの中での〈村川=神〉に他ならなかった。
 〈意味のない〉映画を作ろうとする者は、自らが神であるという倨傲を隠し持っている。意味を求める観客の眼に、〈意味のない〉映画を指し出すことができるのであれば、彼は〈神〉である。〈意味のない〉映画を目指した『ソナチネ』は、意味で充満した映画であった。ビートたけしは映画監督としても〈神〉になりそこねたというわけである。


 タイトル画像の、槍に突き刺された魚は、この映画の主人公村川の磔刑図の如きものに見えはしないだろうか。村川は、死の美学によって、自分で自分を殺したというよりは、やはりある何ものかによって殺されたのではなかろうか。槍を持っているものはだれなのか!