蓮實重彦「〈美〉について 谷崎潤一郎『疎開日記』から」(小林康夫/船曳建夫 編『知のモラル』所収)

実際,いつもとは何かがわずかに違っているという差異への敏感さを欠いている知性は,およそ知性の名には値しません.核実験を「美しい」スペクタクルとして鑑賞しうるものに欠けているのは,まさに変化を察知しうる知性なのです.そうした知性ならざる知性は,「美しさ」という概念の「一般性」を信じ,夜空に交錯するサーチライトの光を新しい時代にふさわしい「美しさ」だなどと断言してしまうのです.
 「戦争とは斯くも美しきものかな」という谷崎の感慨には,いまなお生き延びている「美しさ」という概念の「一般性」の無自覚な確信に対するいらだちがこめられています.そのいらだちを,彼は,あえて「美しきものかな」と書いてしまうという作家的な敗北によって,実践的に表現しているのです.それは,知らぬまに政治に奉仕してしまう国家の審美主義化があからさまに露呈させてしまう知性の欠如への,ほとんど無謀な闘いだといえるかもしれません.このとき,無責任きわまりない断言と思われた谷崎潤一郎の言葉が,〈知〉のモラルの実践へと逆転します.実際,谷崎が戦後に発表することになる『鍵』や『瘋癲老人日記』には,ともすれば国家の審美主義化につながりかねない『陰翳礼讃』で擁護されていたような「美しさ」など,影さえ落としていません.谷崎潤一郎は,不意の遭遇を通して,まぎれもなく変化したのです.『疎開日記』は,その変化の瞬間をなまなましく記している書物なのです.