蓮實重彦「〈美〉について 谷崎潤一郎『疎開日記』から」(小林康夫/船曳建夫 編『知のモラル』所収)

 では,「戦争とは斯くも美しきものかな」という断言は,「戦争は悲惨だ」とつぶやくほかはない核時代の状況と,どのようにかかわるのでしょうか.ここでひとこと付言しておくなら,広島の上空に核爆弾が炸裂してからも,戦争が野蛮であることを人類がこぞって認識したわけではないという事実があります.実際,アメリカにおけるその後の核実験は,新しい魅力あふれる見世物として多くの観客を集めて行われていました.当時のハリウッドのもっとも美しい赤毛女優のリタ・ヘイワースは,「原爆女優」というニックネームで親しまれてさえいたほどなのですから,やはり「戦争は美しい」ものだったのでしょう.核爆弾のそうしたスペクタクル化現象は,科学的な視点からしても,人間の尊厳という立場からしても,人類の愚かさをきわだたせる無責任きわまりないものだというほかはありません.では,谷崎の「戦争とは斯くも美しきものかな」という感慨の無責任性は,そうした人類の愚かさという文脈におさまるものでしょうか.
 それを考えるにあたって,「戦争は悲惨だ」や「人類は愚かだ」という言表がおさまる文脈を検討しておかねばなりません.いまでは,政治家から市民にいたるまで誰もが口にしうるという意味で,そうした言葉は「一般性」の領域に形成されるものです.その「一般性」は,それぞれの局面で「戦争は悲惨だ」と実感しただろう個人的な体験の「特殊性」を集約しており,その意味で正しいものだといえます.「人類は愚かだ」についても同じことがいえるでしょう.にもかかわらず,この正しさというものが厄介なのです.たとえほとんどの人が「戦争は悲惨だ」と思っている状況があろうと,なお戦争を準備しなければならない政治は,国家の審美主義化ともいうべき巧妙な政策によって,その正しさをあっさり「戦争は美しい」へと転化させてしまうものだからです.「政治は国家の総合芸術だ」というゲッペルスの言葉を霊感にして組織されたナチス政権下のドイツで起こっていたことは,まさしくそれにほかなりません.「人類は愚かだ」という言葉が,そこでは「ドイツ国民は崇高だ」となって流通し,「戦争は美しい」というスローガンを巧みに浸透させてしまうのです.合衆国における核爆弾のスペクタクル化も,そうした文脈におさまるものだし,類似の現象は戦時下の日本にも起こっていました.20世紀の歴史から受けとめるべき教訓は,だから,言表の正しさの限界という事実にほかなりません.「戦争は悲惨だ」という言葉は,それがどれほど真摯な体験にねざしていようと,「一般性」の領域に形成されるものであるかぎり,ほとんど何もいっていないのとかわらないからです.

   ※太字は出典では黒丸点