本田和子『異文化としての子ども』

しかし、共同体による「通過儀礼」の消失と共に、「病気」という「通過儀礼」もまた、姿を消しつつあることに注目せねばなるまい。病児と家族との間に、「生命を看取るもの」という抜き差しならない関係を出現させ、共に「生死の深淵を覗きこませる」、常ならぬひととき。それは、新しい生を自覚させる「新生の機会」でもあった。それらがすべて姿を消しつつあるとすれば……。子どもたちの成長の過程が、いやが上にも単調に、直線化しつつあることは、否むべくもないのである。