本田和子『異文化としての子ども』

 サーカスや見世物は、しばしば子どもの誘拐と結び付けられ、「人さらい」神話に彩られてきた。人々は、演技者の上に「さらわれた子ども」のイメージを重ねつつ、その肉体の極限に挑む演技にひときわ胸を熱くし、拍手を送ってきたのであった。こうした「人さらい」神話のリアリティは、先に見てきたような、芸人と子どもとの一体性に支えられている。現象的にも、そして構造論的にも、彼らは見事なまでに重なり合うのだ。
 そのゆえに、子どもたちが見世物という異人の世界にあまりにも無媒介に入りこみ、浸りきってしまうこと、すなわち、彼らと同じ負性を帯びた存在と化し永遠の異人として手許から離れていくこと、それらへの恐れが、こうした神話をことさらに補強し、見世物世界と子どもとの間の防壁としても機能させたのであろう。「見世物は恐いところだよ。あまり夢中になると、連れて行かれてしまうよ」と……。人々が、そして秩序が、芸人と子どもによって呼び覚まされたのは、まさに「闇を共有する者」への畏怖であった。