本田和子『異文化としての子ども』

それゆえに私どもは、子どもたちのきれぎれの言動にも、何かしら前後の脈絡を見出して、辻褄を合わせようとする。そうすることで、辛うじて自身を納得させるために。その結果、私どもは、子どもたちの世界が、非連続に見えて、その実、切れ目もなく連続する不思議なまとまりであることに気づかない。さらに、「ばらばらな断片」としか見えない彼らの言動の、特有の輝きにも盲目である。そして、それ以上に、彼らの言動を「非連続」と見る私どもの視座が、自身の「非連続性の投影」であることに気づきにくいのだ。