鷲田清一「死なないでいる理由」(『死なないでいる理由』所収)

 同じ問いは自死をめぐっても立ってくる。
 数年前だったか、新聞紙上で、大宅映子さんのこんな行文にふれた。
「死ぬとわかっていて、なぜ人間は生きてゆけるのか」、そういう根源的な問いに答えを出していくのが文学部というところだという、ある大学での講演のくだりである。
 死ぬことがわかっていて、それでも死なないでいる理由とは何か。わたしには、この問いがずっと喉の棘のようにひっかかっている。歳とともに、〈死〉という出来事に突然呑み込まれても不思議ではないという想いがつのってきたからだろうか。たぶんそうではあるまい。
 ここで〈死〉というのは、このわたしの死ということである。おまえは生きながらえているように見えて、すでにもう死にはてているではないか。それがおまえの生であるかぎり、おまえはたしかに生きている……。そういう声も聞こえないではない。あるいは、おまえが〈わたし〉として生きているのを意識して生きている時間のほうがずっと短いんじゃないか、という醒めた声も聞こえないわけではない。だが、〈死〉はやはりわたしのそれとして意識される。
 あるいのちがこの〈わたし〉として限定された事実をこそ取り消そうという欲動がひとにはあることを、知らないわけではない。幼児が(母親の不在といった)不快な体験や外傷という痛い体験を夢や遊びのかたちで反復するという「反復強迫」が、無限反復の可能性に賭けることでじぶんの存在の一回性を取り消そうとする屈折した「死への欲動」であるらしいことを、精神分析の本で読んだこともある。そうだとすると、しなければならないという意識でくりかえす日々の仕事も、かたちを変えたわたしの「死への欲動」である可能性もある。ゲームや娯楽だけでなく仕事そのものが、まなざしが自己自身の存在へと折れ返るのを妨げるためにひとがやむなく考えついた習い、つまりは気散らし(divertissement)にほかならないと、ブレーズ・パスカルが数百年も前に断じたように。
 が、「死への欲動」もまた存在の抹消というかたちで〈わたし〉の存在ともつれあう。わたしたちは〈わたし〉というものをよほど肯定しがたいのだろうか。それとも〈わたし〉を肯定したいがゆえにこそその負の一回性を取り消そうとするのだろうか。そのいずれにしろ、いまのじぶん自身が肯定しがたいということだけはたしかな事実としてあるらしい。少なくともわたしは、「わたしはいるよりいないほうがいい」という声をじぶんの内から消しえていない……。

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