森田正馬『対人恐怖の治し方』

 われわれが死を恐れ、病を厭うのは、生の欲望を全うせんがためである。死ぬ心配さえなければ生きていなくともよい、というはずはない。生きたくないものが、死を恐れるわけもない。しかるに神経質の気質は、死を恐れることに執着し、没頭して生の欲望を失念し、病をいたわることに熱中して日常の生活を忘れ、たとえば、正岡子規が七年間、仰臥のまま苦痛にあえぎつつ、しかもあれだけの子規随筆、その他の大部のものができた、というようなことは、思いもかけぬことである。子規はすなわち、苦痛は苦痛として、欲望は欲望として、これに乗りきったのである。神経質の見ならうべきところはここにある。神経質は、いたずらに苦痛を廻避し、彌縫しようとするために、自己本来の欲望を無視し、没却してしまうのである。
 死の恐怖と生の欲望との関係と同様に、羞恥の恐怖は、同時に優越の欲望である。優越欲とは、(中略)思うがままに獲たい、という欲望と同様である。
 前に「負けおしみ」といったが、それは同時に「勝ちたがり」であって、勝てぬ残念、勝てぬかも知れぬという心配が、すなわち「負けおしみ」である。
 神経質が、死を恐れるために生の欲望を忘れるように、対人恐怖は、負けることを恐れるために勝ちたいことを忘れ、羞恥を恐れるために、人に優りたいという欲望を無視してしまう。しかも勝敗を度外視しよう、毀誉褒貶を超越しようとしても、自己本来の人情を否定することはできないから、結局、苦悩、煩悶に陥ってしまうのである。