平木典子『カウンセリングの話』

 共感的理解をするためには、よく聴き、よく看ることが大切である。相手について理解するのではなく、相手理解するには、心からわかろうとすることが必要である。それは、きわめて積極的かつ能動的な態度であって、単に「黙って見ている」こととは異なる。「きく」という言葉には「聞く」「訊く」「聴く」などの少しずつ意味の異なった字がある。「聞く」は、「音がきこえる」「音をきく」という意味で、単に耳に入るという程度である。「訊く」のほうは「訊問をする」などといういい方もある通り、「こちらが尋ねたいことをきく」ということで、相手のいいたいことを聞くのではない。これらに対して「聴く」は、字の中に「心」という字が入っていることからもわかるように、耳で聞いたことを心で受け止めることをいい、「本当に相手が何をいおうとしているかをきちんと受け止めようとするきき方」ということになろう。つまり、共感的理解を推し進めるように聞くのである。
 (中略)共感的理解を進めるきき方は、相手の準拠枠に従って、相手の気持ちも共に理解するきき方だといっていいだろう。
 次に、相手をきちんと理解するためには、しっかり看ることも大切である。「みる」という字も「見る」「視る」「診る」「観る」「看る」などがあるが、「見る」は「聞く」と似ていて、何となく目に入る、「ながめる」という見方である。「視る」は「視察する」、「診る」は「診察する」、「観る」は「観察する」の意味だから、これらは「みて推量する、調べる」というニュアンスを含んでいる。これに対して「看る」は「看護」の「看」であって、目の上に手がかざされている形からできた字だという。つまり、目の上に手をかざして見ることで、「焦点を定めて、みるべきものをみる」という意味である。相手が表現し、訴えていることをきちんと見るのが看護の基本と考えるならば、「看る」ということは、「聴く」に通じる見方といえるだろう。
 カウンセリングでは、まずよく聴き、よく看て、相手を共感的に理解することから始めることが大切である。なんとなく聞いて、なんとなく見て、あるいは自分の聞きたいところだけをいて、自分の見たいところをて相手を理解したと思うのは、真の理解からはほど遠い。ほんとうに相手を理解することができれば、こちらの行う援助も、かける言葉も変わってくる。真の援助を行うためには、まず共感的に理解することから出発したい。

   ※太字は出典では傍点