渡辺利夫『神経症の時代――わが内なる森田正馬』

 思えば、神経症者とは、今を生きることを放棄して、過去の改悛と未来への不安におののき、それにとらわれてしまった人たちではないのか。症者の多くは、もう終わってしまった過去に対して、あのとき自分は赤面したから友人から変に思われたのではないか、友人が顔をそむけたのは自分の視線がおかしかったからではなかったか、電車に乗っていたときに生じた激しい心拍は身体の何かひどい異常のあらわれではなかったか、と過去に強迫的にとらわれて、後ろ向きの時間のなかで葛藤を繰り返し、今を積極的に生きることがどうしてもできない。同時に彼らは、今を通り越して未来への不安に身を震わせる。あのような赤面がまた起こったら自分は社会のなかで生きてはいけないのではないか、電車に乗れば以前にも増して恐ろしい心悸亢進に襲われるのではないか、という予期恐怖にとらえられて同じく今を生きることができない。
 複雑に錯綜する現代の社会組織のなかで生を営んでいく以上、われわれを取り巻く周辺が自分の都合のよいように振る舞ってくれることはない。しばしば自分に敵対的な周辺をそのようなものとして認めて、いかに不条理にみえようとも周辺に自分を積極的に適応させて生きていくことが人間としての務めである。
 また、人間が病むことなく生を送るのは不可能であり、老いて死にいたることは誰もこれを避けることはできない。老い病み死ぬことからわれわれが自由であることはありえない。社会的不条理や生老病死のことを不安に思い、これに恐怖するのは人間感情の本然である。その本然を本然としてあるがままに受け容れることができず、過去を批判的に振り返り、未来を不安におもんぱかって今の生に身をまかすことができない、そうして今から逃避して煩悩と抑鬱の日常にさいなまれる、このような人間の苦悩を代弁する者が神経症者である。
 いかに極限状況におかれようとも、いな極限状況にあればあるほど、今を生きることの重要性はいよいよ大きいと考えねばならない。