渡辺利夫『神経症の時代――わが内なる森田正馬』

 人間の心身機能の発揚は、子供にあっては遊びであり、長じるにともなって仕事に移る。人間はこの世に生を受けて以来、厳しい現実のなかでその生を営々とつむいできた。それを可能ならしめたものは、仕事である。仕事によって環境を自己の生存維持のために変革し、変革を求めて人間社会の組織を構成してきた。人間の生の欲望を充足させるものは仕事であり、心身機能の全的な発揚がこの仕事のなかでなされてきたのである。
 仕事とは字義どおり、事に仕えることであり、人間が自然の対象に働きかけ、対象と合一することのできる無二のものである。技術がきわめて高度化し、社会的分業が際限のないほどに細分化され、それに応じて社会組織も錯綜をきわめている現代にあっては、ことはそれほどみえやすくはないが、仕事が人間に対してもつその本質的意義に基本的な変化があったとは考えられない。
 自然生命体としての人間は、そもそも活動をしないわけにはいかないようにできている。四肢の筋肉は絶えざる運動を要求しており、内臓はわれわれの意志のいかんにかかわらず常に動いて身体の活動を促し、五官は心身の外界への反応を強いてやまない。活動こそが自然であり、無為は自然に反する。人間の器官はそれを存分に機能させることによってますます強化され、機能を用いなければ委縮し虚弱になるという、われわれのよく知っている心身の現実を眺めるにつけても、活動は人間の自然であり、無為は反自然である。その活動の中核が仕事である。
 療法的にいえば、予期恐怖にとらわれて行動を忌み嫌う神経症者に、ともかく一つでも仕事をなし遂げさせ、そうして抑鬱的な気分のなかにあっても何事かをなしえたという体験的な自信を与え、心身機能発動の爽快を感じさせる。この反復により、己れの精神の内界をみつめて煩悩の人生を過してきた症者の「即我的」態度は、仕事という具体的な対象に向かい、それに没入するという「即物的」態度へと、つまりは内向から外向へと変化する。
 症者が仕事にみずからを没却して、仕事にわれを忘れるようになったとき、症状は噓のように消滅していることを正馬は何度も観察し、仕事を通じてなされる心身機能の発揚が神経症の克服にとっていかに大きな意味をもつかを強く悟らされたのである。