ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』(米川和夫 訳)

それにしても、いったいわれわれが形式を作りだすのか、形式がわれわれを作りだすのか? われわれにしてみれば、構成するものはこのわれわれをおいて他にはないように思えるのだが、そんなことは――ただの幻想にしかすぎない。構成するわれわれは、同じ程度に、構成によって構成されているわけだ。きみの書いたものがその続きをきみに口述する。作品はきみのなかから生まれるのではない。きみはしかじかのことが書きたかったのに、書きあげられてきみの手に残ったものといえば、それとはまるきり違ったものではないか。部分はいつも全体を求める傾きをもつ。どの部分にしても、ひそかに全体にあこがれを寄せる。円満を希求し、充足を求める。そして、ほかの部分が自分の似姿にかたどられることを夢見る。そのうえ、われわれの感覚はというと、現象の混沌たる大海からなにかの部分をすくい取るだけなのだ――たとえてみれば――耳とか足とかいった部分を。その耳が、足が、われわれのペンのしたで、作品のそもそもの書きだしからたちまち手足を伸ばし始めるのだ。われわれがいくらその部分から抜けだそうともがいても、もうあとの祭、ただ続きを書きたしてゆくだけのことしかできなくなる。つまり、耳とか足とかいった部分がわれわれの残りのいっさいの部分を横暴に支配してしまうわけだ。かしの木をとり巻くつたのように、部分がわれわれをとり巻いてしまうのだ。初めが終りを形作り、終りが初めを形作る。真中は初めと終りのあいだに形作られるより仕方がない。全体にかんするこの絶対的な無力さは人間の精神に明白なしるしをきざみこんでいる。それならば、こうした部分というものをいったいどのようにしまつしたらいいのだろう? こうした部分――われわれの子供の母親の床(とこ)をまるで欲望に火と燃える種馬が千匹からおとずれたとでもいうように、われわれとは似ても似つかぬしるしを背負って生まれた部分の問題を処理するには? ハーッ、形だけでも父権を救う唯一の手だては、あらんかぎりの道徳的な力をふるい起こして、いっこう父に似たがらぬ作品と同化する以外にない。いや、いや、なまやさしい話ではないのだ!

   ※太字は出典では傍点