『落窪物語』(巻一)

 暗うなるままに、雨いとあやにくに、頭(かしら)さし出づべくもあらず。少将、帯刀(たちはき)に語らひたまふ。「くちをしう。かしこにはえ行くまじかめり。この雨よ」とのたまへば、「ほどなく、いとほしくぞはべらむかし。さはべれど、あやにくなる雨は、いかがはせむ。心の怠りならばこそあらめ。さる御文をだにものせさせたまへ」とて、けしきいと苦しげなり。「さかし」とて書いたまふ。
 「いつしか参り来むとて、しつるほどに、かうわりなかめればなむ。心の罪にあらねど、おろかに思ほすな」
とて、帯刀も、
 「ただ今参らむ。君おはしまさむとしつるほどに、かかる雨なれば、くちをしと嘆かせたまふ」
と言へり。
 かかれば、いみじうくちをしと思ひて、帯刀が返り事に、
 「いでや、『降るとも』と言ふこともあるを、いとどしき御心ざまにこそあめれ。さらに聞こえさすべきにもあらず。御みづからは、何の心地のよきにも、来むとだにあるぞ。かかるあやまりし出でて、かかるやうありや、さても世の人は、『今宵来ざらむ』とか言ふなるを。おはしまさざらむよ」
と書けり。君の御返りには、ただ、
   世にふるをうき身と思ふわが袖のぬれはじめける宵の雨かな
とあり。


(解説)
◆心の罪にはあらねど=私の心に罪に当たるようなことはないが。誠意はあるのだということ。
◆おろかに思ほすな=私の気持ちをいいかげんなものとおもわないでください。
◆かかれば=こういうことであったので。少将と帯刀の手紙を下男が届け、姫に仕える阿漕は事態を知った。
◆降るとも=「石上(いそのかみ)降るとも雨につつまめや妹に逢はんと言ひてしものを(『万葉集』)による。たとえ雨が降っても約束を守って会いに行くのだ、という歌。
◆今宵来ざらむ=今夜来なければいつ来てくれようか、の意。「ゆふけ問ふ占(うら)にもよくあり今宵だに来ざらむ君をいつか待つべき」(『拾遺集』)による。占いに吉と出ていた今夜さえ来ないようなあなたをいつまで待てばよいのでしょうか、の意。
◆君の御返り=「君」は姫君。
◆世にふるを…の歌=「降る」と「経る」が掛詞。「ふる」「ぬれ」「雨」は縁語。


(現代語訳)
 暗くなるにつれて、雨はまったくあいにくなことに、ちょっと頭を出すこともできないような土砂降りになってしまった。少将が、帯刀に「残念だが、あちらにはいけそうもない様子だ。この雨を見よ。」とおっしゃると、帯刀は「姫とお会いになってまだ間もないのに、殿がおいでにならないのでは、姫さまがおかわいそうでございます。そうではありますが、あいにくなこの雨では、どうしようもございません。殿のお気持ちが十分でないのならば、罪にもなりましょうが、そうではないのですから、せめて姫さまのお心を慰めるようなお手紙をお書きください。」と申し上げて、じつに困った様子をしている。「そうだな」といって、少将は手紙を書く。
 「早くそちらに行こうと思って、用意していた間に、こう雨が強くなってしまったので、どうしようもありません。愛情が不足しているわけではありませんが、あなたが疑うのではないかと気がかりです。なおざりに思わないでください。」と少将は姫君に宛てて書いた。帯刀も、姫君に仕えている阿漕に宛てて「すぐにそちらにまいります。お出かけになろうとしたときに、こうもひどい雨になったので、殿は残念に思っていらっしゃいます。」と手紙を書いた。
 少将はやって来ないということであったので、阿漕は何とも残念に思い、帯刀への返事に、「さてまあ、古歌には『降るとも』ということもあるのに、じつに薄情に思われる少将さまのお心ですね。まったくもって姫さまには申し上げようもありません。あなたはどういうつもりでこちらへ来るなどというのですか。こんな不手際をしておいて、こちらに来るも何もあるものですか。それにしても、世間の人は『今宵来ざらむ』とか言っているようですのに。少将さまはもうこちらへはいらっしゃらないのでしょうね。」と書いた。姫君から少将へのお返事には、ただ、
  世の中に生きていくのをつらいと思っている私の袖が、今宵の雨のせいで濡れはじめたのでした。
と書いてあった。