清岡卓行「アカシヤの大連」

 かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ。
 それは、彼が生まれ、幼年時代と少年時代を送った町である。いや、それだけではない。第二次大戦があと五か月ほどで終わろうとしていた頃、東京のある大学の一年生であった彼が、抑えがたい郷愁にかられ、病気でもないのに休学して舞い戻った、実家のあった町、そして、やがて祖国の敗戦を体験し、そのあと三年もずるずると留まることとなり、思いがけなくも結婚した町である。