谷崎潤一郎「蓼喰ふ虫」

 美佐子は今朝からときどき夫に「どうなさる? やつぱりいらつしやる?」ときいてみるのだが、夫は例の孰方(どつち)つかずなあいまいな返辞をするばかりだし、彼女自身もそれならどうと云ふ心持もきまらないので、ついぐづぐづと昼過ぎになつてしまつた。一時ごろに彼女は先へ風呂に這入つて、どつちになつてもいいやうに身支度だけはしておいてから、まだ寝ころんで新聞を読んでゐる夫のそばへ「さあ」と云ふやうに据わつてみたけれど、それでも夫は何とも云い出さないのである。
 「兎に角お風呂へお這入りにならない?」
 「うむ、……」
 座布団を二枚腹の下へ敷いて畳の上に頬杖をついてゐた要(かなめ)は、着飾つた妻の化粧の匂ひが身近にただよふのを感じると、それを避けるやうな風にかすかに顔をうしろへ引きながら、彼女の姿を、と云ふよりも衣裳の好みを、成るべく視線を合はせないやうにしてじろじろと眺めた。