徳冨蘆花「寒月」『自然と人生』より

夜九時、戸を開けば、寒月昼の如し。風は葉もなき万樹(ばんじゆ)をふるひて、飄々、颯々、霜を含める空明(くうめい)に揺動し、地上の影(かげ)木と共に揺動す。其処此処に落ち散る木の葉、月光に閃いて、簌(さく)、々、々、玉屑(ぎよくせつ)を踏む思(おもひ)あり。
仰ぎ見れば、高空(かうくう)雲なく、寒光千万里。天風吹いて、海鳴り、山騒ぎ、乾坤皆(みな)悲壮の鳴(めい)をなす。耳を側立(そばだ)つれば、寒蛩(かんけう)籬下(りか)に鳴きて、声、絶たむとす。風に向ひて、月色(げつしよく)霜の如き徃還(わうくわん)を行く人の屐歯(げきし)戞然(かつぜん)として金石(きんせき)の響(ひびき)をなすを聞かずや。月下に狂ふ湘海(しようかい)の彼方に夜目(よめ)にも富士の白くさやかに立てるを見ずや。
月は照りに照り、凩は弥(いや)吹きに吹く。大地(たいち)吼へ、大海(たいかい)哮(た)けり、浩々(こうこう)又浩々たり。
大(おおい)なる哉(かな)自然の節奏。此(この)月と此風と、殆んど予をして眠(ねぶ)る能はざらしむ。