井上靖『天平の甍』

 二十日の暁方、普照(ふしょう)は夢とも現実ともなく、業行(ぎょうこう)の叫びを耳にして眼覚めた。それは業行の叫びであるというなんの証しもなかったが、いささかの疑いもなく、普照には業行の叫びとして聞えた。波浪は高く船は相変らず木の葉のように揺れていた。船は波濤の頂きに持って行かれては、波濤の谷へ落されていたが、船が谷に落ち込む度に、普照の眼には不思議に青く澄んだ海面が覗かれた。潮は青く透き徹っており、碧(みどり)色の長い藻が何条も海底に揺れ動いているのが見えた。そしてその潮の中を何十巻かの経巻(きょうかん)が次々に沈んで行くのを普照は見た。巻物は一巻ずつ、あとからあとから身震いでもするような感じで潮の中を落下して行き、碧(みどり)の藻のゆらめいている海底へと消えて行った。その短い間隔を置いて一巻一巻海底へと沈んで行く行き方には、いつ果てるともなき無限の印象と、もう決して取り返すことのできないある確実な喪失感があった。そしてそうした海面が普照の眼に映る度にどこからともなく業行の悲痛な絶叫が聞えた。
 船は何回も波濤の山に上り波濤の谷へ落ち込んだ。普照の耳には何回も業行の叫び声が聞え、普照の眼には何回も夥しい経巻が次々に透き通った潮の中へ転(ころが)り落ちて行くのが見えた。