源氏鶏太「流氷」

 その夜、美奈は、店へ出て、客の相手をした。ぐいぐいと酒を飲んで、別人のように、陽気に騒いだりしていた。お秋さんも、この調子なら、美奈も、憑きものが落ちたように、案外、早く、立直るのではないか、と思っていた。客の切れ目が出来たとき、
「酔い過ぎたらしいわ。ちょっと、外へ出て、頭を冷やしてくるわ」
 と、美奈がいった。
「そんなに酔っていて、危いわよ。あたし、いっしょに行ってあげようか」
「大丈夫よ」
 美奈は、そういうと、肩から毛布をかぶって、ひとりで外へ出て行った。その夜は、天地が凍りつくように寒かった。
 お秋さんは、私の顔を見ながら、
「美奈ちゃん、それっきり、帰ってこなかったわ」
「どこへ行ったんだ」
「わからない」
 お秋さんは、遠くを見るような眼つきで、重ねていった。
「わからない。どこへ行ったのか、誰にもわからないのよ」
「大阪か、東京へ行ったのだろうか」
「借金を踏みたおして逃げたのかも知れないし、本当のことは、誰にもわからないわ。ひょっとしたら、流氷に乗って、遠い遠いところへ行ってしまったのかも知れないし」
「流氷?」
「その頃になると、この町の空気が、凍りつくようにピーンと張って、海には、流氷がいっぱい押し寄せて来るのよ」
「流氷というと?」
「厚さが一メートルぐらいの氷のかたまりよ。五十センチ四方ぐらいのちいさいのから、二メートル平方ぐらいのもあるわ。そういうのが沖まで、ぎっしりとつまっているんだから、その上に乗って、遊べるわよ」
「その流氷に乗って、死ぬことが出来るのか」
「そうね、死のうと思えば……。酒をたくさん飲んで、どんどん、沖の方へ歩いて行くのよ。誰にも見えないくらい遠いところへ行って、そこで、じいっとしていたら、一晩で凍死出来るわ。そのうちに、風向きが変って、流氷が沖の方へ流されて行ったら、屍体だって、永遠に帰ってこないわよ」
「すると……」
 私は、息を詰めるようにして、
「彼女は、川原さんの後を追って、わざわざ、そういう死に方をしたのだろうか」
「私の想像よ。だけど、沖の方へ歩いて行く人影を見た、という人があるのよ。でも、それが美奈ちゃんだったという証拠がないわ。かりに、美奈ちゃんだったとしても、酔っぱらって、死ぬ気でなしに、ただ、ふらふらっと、流氷の上を歩いてみる気になったのかも知れないし。いいえ、今頃、美奈ちゃんは、きっと、どっかで生きているかも……」
「そうだよ。きっと、どっかで生きていて、幸せになっているよ」
 やがて、私は、だるま屋を出た。あれほど、ビールを飲んだのに、すこしも酔っているようではなかった。私は、いつか、港へ出ていた。防波堤の先の灯台が、青白い光を、ぐるぐるまわしていた。沖の漁船から、微かな光が洩れていた。黒々とした海面が、月光にキラキラと光をはね返していた。どこからか、哀しげなハモニカの音が聞えていた。曲は『天然の美』であった。私の気持は、沈んでいた。静かな波音を聞きながら、私は、
「これが、オホーツク海の波音なのだ」
 と、思っていた。
 黒い海面が、急に、いちめんの流氷に見えて来た。月光を浴びて、大小無数の流氷は、白々とひしめき合っている。その流氷の上を、美奈が、うなだれながら、影を落して、ゆっくりと歩いて行く。一度も振り向かないで、川原の名をいい続けながら、暗い沖の方へ、しだいにちいさくなって行く。ともすれば、私は、その美奈の姿を見失いそうになる。が、灯台の光が、流氷の上をなめるようにまわってくると、その一瞬だけ、彼女の姿が、パッと浮かび上るように見えた。そして、そのつど、彼女の位置は、進んでいた。私は、錯覚と知りつつ、いつまでも、流氷の上を一つの点のようになって、永遠に遠ざかって行く美奈の後姿から、眼をそらすことが出来ないでいた。
 ハモニカの音は、まだ、嫋々(じょうじょう)と夜空に聞えていた。