三好達治「鮎鷹」

 もうそこここには早咲きのダリアの花がまっ赤に咲いている。去年その花のふんだんに咲いていた垣根のあたりを通りすがりに、ふとそう思って眼をとめると、今年もまたそこにその花が一輪二輪はや咲きはじめていて、その庭は丁度去年と同じようなあんばい風(ふう)に準備ができている。さぞかし夏の間じゅうその大輪の火のような花が咲きつづけることであろうと見うけられるのも、何やらなつかしく頼もしいような感じがする。
 何といっても花はまっ赤なのがいい。人は年をとるに従って、自(おのず)から趣味も思想も枯淡に赴くもので、私の友人なども近年は陶器や石仏を愛玩するような仲間が追々とふえてゆくようであるが、そういう年輩になって私はいっそう、深紅の燃えるような花がなぜか眼を惹き、強く心を捉えるように感ぜられるのを覚える。それは艶美なもの派手なものを必ずしも好むからではない。そういうアクセントの強い要素が肉体からも精神からもようやく失われてゆこうとするのは、日頃自(おのずか)ら感ずるところであるが、そんな時分になって、これは何かの反響を聴くように、一種はるかなものに対する気持で、ともすると深紅の花卉に強く心の惹かれるのを覚える。