夏目漱石『草枕』

 山路を登りながら、かう考へた。
 智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟つた時、詩が生れて、画(え)が出来る。
 人の世を作つたものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作つた人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行く許(ばか)りだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくからう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人といふ天職が出来て、ここに画家といふ使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊(たつ)とい。
 住みにくき世から、住みにくき煩ひを引き抜いて、難有(ありがた)い世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云へば写さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。〔中略〕
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知つた。二十五年にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には屹度(きつと)影がさすと悟つた。三十の今日(こんにち)はかう思ふて居る。――喜びの深きとき憂(うれい)愈(いよいよ)深く、楽(たのし)みの大いなる程苦しみも大きい。之を切り放さうとすると身が持てぬ。片付けやうとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖(ふ)えれば寐る間も心配だらう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかへつて恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支へて居る。脊中には重い天下がおぶさつて居る。うまい物も食はねば惜しい。少し食へば飽き足らぬ。存分食へばあとが不愉快だ。……

   ※太字は出典では傍点