井伏鱒二『朽助のゐる谷間』

 タエトは杏の実を拾ひ集めた。彼女は片手に四箇以上を握ることができなかつたので、上着の前をまくり上げて、それをエプロンの代用にして果実を入れた。そして、さういふ姿体のままで私のところへやつて来て、完全な日本語でもつて、去年はこの果実を洗はないで食べたことを私に告げた。私はなるべくながく彼女と一しよにゐたいため、彼女のエプロンから杏の実をもらつて、一口づつゆつくり齧つた。すでに朽助は牛を連れて山へ出かけてゐたのである。
 タエトは私の傍に黙つて立つてゐた。若し私が好色家であるならば、彼女のまくれた上着のところに興味を持つたであらうが、私は元来さういふものではなかつたので、杏を食べることに熱中してゐる様子を装つた。しかし、あらゆる好色家に負けない熱心さでもつて、私は彼女に次のやうに言つた。
「君も食べたまへ。よく熟したのがうまいぜ。こいつは酸つぱさうだが、これはうまいぜ。」