2013-12-22から1日間の記事一覧

金井美恵子『夢の時間』

事務員たちはチラとアイに視線を向け、受話器を置いた係員は、ニコニコ笑いながら、ホテルまでの道をアイに教えた。 ――この道を右へ、駅と反対に向って真っすぐ行くとつき当りの三叉路がありますから、それを左に曲るんです。それから、アーケードのある通り…

井伏鱒二『朽助のゐる谷間』

タエトは杏の実を拾ひ集めた。彼女は片手に四箇以上を握ることができなかつたので、上着の前をまくり上げて、それをエプロンの代用にして果実を入れた。そして、さういふ姿体のままで私のところへやつて来て、完全な日本語でもつて、去年はこの果実を洗はな…

太宰治『晩年』、「ロマネスク」――喧嘩次郎兵衛――

結婚してかれこれ二月目の晩に、次郎兵衛は花嫁の酌で酒を呑みながら、おれは喧嘩が強いのだよ、喧嘩をするにはの、かうして右手で眉間を殴りさ、かうして左手で水落ちを殴るのだよ。ほんのじやれてやつてみせたことであつたが、花嫁はころりところんで死ん…

『徒然草』第九十七段

その物につきて、その物を費しそこなふ物、数を知らずあり。身に虱あり、家に鼠あり、国に賊あり、小人に財あり、君子に仁義あり、僧に法あり。

夏目漱石『坑夫』

そこへ戸を開けて、医者があらはれた。其の顔を見ると、矢張り坑夫の類型(タイプ)である。黒のモーニングに縞の洋袴(ずぼん)を着て、襟の外へ顎を突き出して、 「御前か、健康診断をして貰ふのは」 と云つた。此の語勢には、馬に対しても、犬に対しても、是…

野坂昭如『殺さないで』

車がきしみ、とまると、牛殺しの男とび出して、マンガをうけとるように待ちかまえ、すっかりしびれた両腕さするひまもなく、まず腰をけとばされ、はいつくばったところを髪をつかまえられ、 「顔に泥ぬられたやて、えらいすまなんだな、立派な顔に泥塗って。…