マルキ・ド・サド「ソドム百二十日」(澁澤龍彦 訳)

自然の乱脈というものは、自然がもっとも手ひどく害われている時においてさえ、なおかつ依然として崇高でありうるものである。さらにまた、ついでに言ってしまえば、罪悪というものは、よしんば美徳のなかに発見されるような上品さというものを有っていないにしても、なおかつ依然として崇高であり、弱々しい単調な美徳の魅力をつねに顔色なからしむるような、偉大さと崇高さの性格をつねに有っているものではないだろうか。読者諸子がたとえ美徳あるいは悪徳の効用を云々するにしても、自然の法則を究明するのは、作者の義務ではないだろうか。また、悪徳美徳とまったくひとしく自然にとって必要なものだとすれば、自然というものはおそらく、その必要に応じて人間個人個人に同等な素質上の分け前を与えたのであって、この点を決定するのが作者の義務ではないだろうか。