トーマス・マン「幻滅」(実吉捷郎 訳)

 「生れてはじめて海というものを眺めた日のことを、私はよく思い出します。海は大きい。海は広い。私の視線は、岸から沖のほうへさまよって行って、解放せられることを望んだのです。しかるに、その先には水平線がありました。なぜ水平線なんというものがあるのでしょう。私は人生から無限を期待していたのです。
 「あるいは私の視野は、ほかの人たちのよりも狭いのでしょうか。さっき私は、事実というものに対する感覚を欠いているといいましたが、もしかすると、その感覚がありすぎるのでしょうか。私の能力は、あまりに早く尽きてしまうのでしょうか。私はあまりに早くおしまいになってしまうのでしょうか。私は幸福でも苦痛でも、ただ最低度の稀薄な状態のところだけを、知っているにすぎないのでしょうか。
 「そうとも信じられません。私は人間というものを信じないのです。ことに、人生に面しながら、詩人どものぎょうさんな言葉に、声を合せるような奴等は、一番信じられませんな。――あれは卑怯です。虚偽です。あなたはまた、世の中にこういう人間がいるのに、お気がつかれましたか。つまり、ひどく見栄坊で、むやみと他人から尊敬せられたい、ひそかにうらやまれたいと渇望する結果、自分たちは幸福についての偉大な言葉は体験したが、不幸についてのはしたことがないなんぞと、述べ立てる連中があるのですよ。