ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏 訳)

 ともあれ、まちがいを犯すのではないかという心配が、学問にたいする不信の念をかきたて、学問が余計な配慮なしに仕事にとりかかり、認識を実行することを妨げているとすれば、視点を変えて、この不信の念にこそ不信の目をむけ、まちがいをおそれることがすでにしてまちがいではないか、と考えてみるのも意味のないことではない。実際、まちがいをおそれる人はなにかを、しかも、少なくないなにかを、真理として前提し、その上に立って配慮をめぐらし、あれこれ推論しているのであって、その前提が正しいかどうかをまずもって吟味する必要があるのだ。前提とされているのは、認識を道具ないし媒体と見なす考えや、わたしたち自身がこの認識とは別の所にあるとする考えであり、とりわけ、絶対者が一方の側にあり、認識が絶対者とは切り離されたなにものかとして他方の側にある、という考えである。もしそうだとすると、絶対者の外にある認識は、真理の外にもあるはずなのに、それでも正しいものだと考えられていることになる。これでは、まちがいをおそれるというより、真理をおそれているというに近いと思えるのだ。