柄谷行人「鏡と写真装置」

われわれはどんなに反省しても、結局〝鏡〟の外には出られない。ヘーゲルにおける自己疎外・反省の運動は、どこまでいっても「主観性」のなかに閉じこめられている。むしろヘーゲルは、その意味で、たんなる「客観性」を批判しえたというべきなのだ。たとえば、われわれが自分を客観視するというとき、それは自分の姿を鏡でみるようなものであって、けっしてその〝外部〟に出るわけではない。われわれは自分自身の姿をみることはけっしてできないのだから。

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