2011-07-15から1日間の記事一覧

柄谷行人「凡庸なるもの」

たとえば、新しい「感性」などというものはない、それは新しいテクノロジーにすぎないと考えてみたらどうなのか。ひとびとが感性とか感覚といった言葉で語りたがるものは、きまってラジオとか無声映画、蓄音機といったテクノロジーと結びついている。 ※太字…

柄谷行人「病の記号論」

身体的な病気と精神病の区別も、もちろん「分類」である。そもそも病気と健康の二項対立そのものがそのような「分類」であることはさておいて、病気は、それが分類され区別されるかぎりで、〝客観的〟に存在する。たとえば、医者がそう命名するかぎりでわれ…

柄谷行人「病の記号論」

病気が「意味」だとすれば、健康もそうである。というより、現在支配的なのは健康という「病い」であろう。たとえば、ひとびとは禁煙し、ジョギングをやる。政治的にも、〝健康〟なイデオロギーが支配的となっている。

柄谷行人「鏡と写真装置」

厳密にいえば、鏡は上下も左右も変らないが、「前後」が逆なのである。この点に注意しなければならない。つまり、鏡に閉じこめられている近代の、というよりもそもそも「反省」にはじまる哲学知は、根本的に「前後」をとりちがえている。ニーチェが「結果を…

柄谷行人「鏡と写真装置」

われわれはどんなに反省しても、結局〝鏡〟の外には出られない。ヘーゲルにおける自己疎外・反省の運動は、どこまでいっても「主観性」のなかに閉じこめられている。むしろヘーゲルは、その意味で、たんなる「客観性」を批判しえたというべきなのだ。たとえ…