E・F・ロフタス+K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話――偽りの性的虐待の記憶をめぐって』(仲真紀子 訳)

 人は誰でも人生による「傷」を負うている。したがって重要な問いは、これらの傷について何をすればよいのか、ということだろう。記憶が虚構の一種であることを認識したなら、カウンセラーはクライエントにこう言うこともできる。あなたの体験が記憶によってどのような影響を受けているか、それを内省してみてください、と。ヒルマンは「実際に何があったかではなく、それをどのように思いだすかが問題だ」というフロイトの言葉を引用している。フロイトは、私を虐待しているのは記憶だという見方に立ってクライエントが外傷的な出来事を思いだせるよう仕向けることができる、と強調した。ヒルマンは次のように説明している。「私は子どもたちが性的ないたずらや虐待を受けていない、と言っているのではありません。子どもたちは実際性的ないたずらを受け虐待されています。それは全く、唖然とするほどです。しかしカウンセリングは、記憶をどう見るかによって、問題をさらに唖然とするようなものにしています。危害を加えるのは外傷体験だけではありません。外傷的に思いだすことだって危害となるのです」。
 記憶を受動的で無力な子どもの立場へと繫ぎ止めることにより、カウンセリングはクライエントを解放するのではなく、苦しい過去に閉じ込めてしまう。「外傷的に思いだす」ことにより、暴力や中傷は何度も繰り返し訪れる。そして子ども時代は、逃げ場のない地獄と化してしまう。

   ※太字は出典では傍点