山城むつみ『文学のプログラム』

日本の文学者はつねに「文」に直面せざるをえない。読んだり、書いたりしている以上、「文」というシステムとコラボレイトせずにいることはできない。文学的なもの、文学という制度をどんなに軽視してみても「文」化システムの内部にいることにかわりはない。からめとられる危険も何も、すでにつねにそのイデオロギーにからめとられている。この意味において、日本の文学者の立場には暗澹たるものがある。何を読み、何を書いても、結局は虚しいからである。日本語には訓読のプログラムがあり、それによって「文」のシステムが成立している。ラカンならこれを「仕合わせ」と言うだろう。じっさい、これがあるおかげでわれわれは致命的な外傷をほとんど被らずに外来の文物を同化して来られた。しかし、その背面にはつねに奇妙な虚しさがつきまとう。日本語の内部にいる当事者からみるとき、この虚しさは「不仕合せ」というほかない。ラカンは、その真実を「文体」に託すほかない西欧の精神分析の際どいポジションは、終始、日本の読者の理解を絶しているものだと述べてはばからなかった。しかし、逆に、日本の文学者が「文體(カキザマ)」において取らざるをえないネガティヴなポジションも、終始、ラカン(のみならず欧米において日本の「文」を読む人々一般)の問題の外にある。彼らに幸福とみえるまさにその同じものが我々にとっては不幸でありうる。少なくとも、幸福な装置を与えられた我々のこの不幸は彼らの理解を絶している。我々の不幸とは、何を読み、何を書いても、最終的にはどこかしら虚しいということである。「書く」ことの快楽(バルト)もなければ、「読む」ことの禁欲(ド・マン)もない。ただ、どこかしら虚しい。