芹沢俊介『母という暴力』

暴力という言葉を据えてみると、生んだこと、生んでしまったことの暴力性が、子どもたちからの「どうして」とか「なんで」という絶望的な問いかけのなかにあぶりだされてきているのがわかるのです。しかし、生んでしまったこと、生んだことの現実は取り返しがつかないし、修正もできない、そして避けることもできない。避けられない暴力というのは、根源的には「この子を生んでしまった」という暴力性のことなのです。親子関係の発生は暴力と深く関連しているのです。
 根源的なゆえにこのような暴力は避けられないし、取り返しがつかないことが特徴です。ところが、この避けられない暴力にはもう一つ特徴があるのです。避けられない暴力であることによって、逆説的なものをはらんでいるのです。つまり暴力が、こういう言葉が適切かどうかはわからないのですが、その子どもにとって大きな喜びというか、生きていることの喜びの感覚あるいは感謝の気持ちへと転化するということが起こりうるということです。この身体でよかった、この性でよかった、この親のもとに生まれてよかったというようにです。そういう意味で避けられない暴力はとてもパラドキシカルなのです。